2017/04/11

開拓記念(拓荒殖産)碑


 相内神社の御社殿の向かって右手、公園内に開拓記念碑(拓荒殖産碑)があります。大正15年9月25日起工、11月22日竣功、12月1日除幕式をとりおこないました。総工費は五千二百円。
 碑石は陸前国稲井の産石で高さ約4.8メートル、幅は約2メートル、厚さ約30センチ、重量7800キロ。その下部は十勝産の花崗岩で、高さは約2.3メートル、幅は約7.9メートル。地上からの高さ約7メートル。


 創建時はさらにその下に、玉石56.2平方メートル、コンクリート231平方メートルを敷き詰めていました。
 碑文の題と撰は当時の北海道帝国大学総長・佐藤昌介の手になり、三浦翠山が揮毫。碑面の背後には相内村の開基者である屯田兵の戸主199名、他1名の氏名があり、これは小川多聞の書。
 もともと相内神社の境内地はすべて、屯田兵の練兵場でした。夏の暑さや冬の寒さに耐えて訓練を行ってきた地、汗の染み込んだこの場所こそ、記念碑を建立するのにふさわしいと判断されたようです。


(参考)碑文の大意

 遠くふるさとを離れてへんぴな地に移り住み、不毛な土地を切り開いてさまざまな産業を起こす。その志は壮大で、その業績は偉大だというべきでしょう。
 北見国常呂郡相内村はもともと、原生林の広がる不毛の地でした。明治30年6月、根室国和田村の屯田歩兵第四大隊の本部を北見に移し、第三中隊をこの地に置きました。府県に兵戸100を募集して屯田兵とし、翌年9月、また100戸を募集して合流させました。これを相内村の初めとします。
 屯田兵は募集に応じるとみな、北の大地を開拓せよとの大御心をいただき、決然として故郷を離れました。それ以来、強い風や激しい雨をものともせずに、朝晩武を練り、大木を伐採、開墾にたいそう励み、そう時間もたたないのに立派な集落を築きあげました。
 34年には灌漑溝の幹線、総延長4里(約15.7キロ)を掘り進め、翌年竣工しました。それで水田の収穫があがり、たちまち豊かな農村となりました。
 36年3月には、屯田兵の兵期が満了して解隊。後備役に編入されましたが、37、38年の日露戦争には召集に応じて出征し、国家のために力を尽くしました。
 43年2月には、屯田部落の所有地から138町歩(約1.4平方キロ)を割いて、学校基本財産として寄付。
 大正10年4月、相内は野付牛町(現・北見市)より分かれて独立の村となり、二級町村制を施行。15年6月には、工費65,000円を投じて、尋常高等小学校を改築し、7月、相内屯田土功組合を設け、公共事業として日ごとに進展、ためになっています。
 これより先の明治44年10月、池田・網走間に鉄道が初めて通じ、翌大正元年11月、湧別線がまた完成、交通の便がたいへんよくなりました。それで移り住む者が年々増加し、今は全村数えると実に700戸、4200人、田圃2200町歩(約217.8ヘクタール)。生産年額65万円。まことにさかんというべきでしょう。
 今ここに丙寅(碑落成の大正15年)、開村30年に際し、村民がたがいに相談し、碑を建てて記念としようとして私のもとへ来て依頼しました。壮大なる屯田兵の意気や、業績はなはだしく、諸産業の発展に大きな貢献をしたと聞き、喜んで事績のあらましをすぐに良石へと書き記し、また、この事績は永遠に語りつがれるでしょうと申します。

(参考)碑文の書き下し文

 遠く桑梓を辞して、遐荒(かくわう)に移住し、不毛を闢(ひら)きて国産を殖う。その志や壮にして、その業や偉なりと謂(い)ふべし。
 北見国常呂郡相内村は元、榛蕪不毛の地に属す。明治三十年六月、根室国和田村の屯田歩兵第四大隊本部を北見に移し、第三中隊を此の地に置く。府県に兵戸一百を募り、以って屯せしめ、翌年九月、また一百戸を募りて移す。これをして本村殖民の嚆矢と為す。
 初め屯田兵その募に応ずるや、いづれも皆、北彊開拓の聖旨を体し奉り、決然墳墓の地を辞して、而来、櫛風沐雨、日夕武を練り、榛を伐り、墾闢に誅奔し、はなはだ努めて、いまだ幾(いくばく)ならず菑畬、功成る。
 三十四年、灌漑溝の幹線、延長四里を掘鑿、翌年竣工す。是において、水田また随ひて開き、たちまち一農邑と成れり。
 三十六年三月、兵期満ちて解隊編入、後備役に編入さる。三十七、八年の役に充員の召集に応じて出征、国家のために力を竭(つく)す。
 四十三年二月、屯田部落の所有地、一百三十八町歩を割きて、学校基本財産に供す。
 大正十年四月、官、野付牛町を割きて独立の村邑と為し、二級町村制を布(し)く。十五年六月、工費六万五千円を投じて尋常高等小学校を改築し、七月、相内屯田土功組合を設け、官允事業を得て日に進みて為となる。
 是れより先、明治四十四年十月、池田・網走間に鉄道始めて通じ、翌大正元年十一月、湧別線また成り、交通の便、頓(とみ)に開く。移民年を遂ふて増加し、今や闔村の実算、七百戸、四千二百人、田圃二千二百町歩。生産年額六十五万円。まことに盛んと謂(い)ふべし。
 今ここに丙寅、開村三十年に際し、村民胥(たがひ)に謀り、碑を樹(た)てて以ってこれを表せんと欲し、予が文を来たりて請ふ。予すでに壮なる屯田兵移住の意気、かつ業績甚(はなはだ)しく、増殖国産尠(すくな)からざるを挙ぐると聞き、すなはち喜びて事績の梗概を貞石に勒し、以って之を伝ふるに不朽なりと云ふ。

(参考)碑文(原文)

遠辞桑梓而移住遐荒闢不毛而殖国産可謂其志也壮而其業也偉矣北見国
常呂郡相内村元属榛蕪不毛之地明治三十年六月移根室国和田村屯田歩
兵第四大隊本部於北見也兮置第三中隊於此地募兵戸一百於府県以屯翌
年九月又募一百戸而移為是為本村殖民之嚆矢矣初屯田兵之応其募也孰
皆奉體北彊開拓之 聖旨決然辞墳墓之地而来櫛風沐雨日夕練武伐榛誅
奔墾闢太努未幾菑畬功成三十四年掘鑿灌漑溝幹線延長四里翌年竣工於
是水田亦随而開忽成一農邑矣三十六年三月兵期満解隊編入後備役三十
七八年役応充員召集出征為国家竭力四十三年二月割屯田部落所有地一
百三十八町歩供学校基本財産大正十年四月官割野付牛町為独立村邑布
二級町村制十五年六月投工費六万五千円改築尋常高等小学校七月設相
内屯田土光組合得官允事業日進為先是明治四十四年十月池田網走間鉄
道始通翌大正元年十一月湧別線亦成交通之便頓開移民遂年増加今也
村実算七百戸四千二百人田圃二千二百町歩生産年額六十五万円寔可謂
盛矣今茲丙寅際于開村三十年村民胥謀欲樹碑以表之来請予文予既壮屯
田兵移住之意気且聞業績甚挙増殖国産不尠乃喜勒事績之梗概於貞石以
伝之不朽云

大正十五年丙寅九月中浣
 北海道帝国大学総長正三位勲一等農学博士佐藤昌介 題並撰


(参考)相内村開基三十周年記念式典中、建碑除幕式における工事報告

 相内村開基三十年記念事業ノ随一たる開村記念碑功成り、茲に序幕の式典を挙るに当り不肖鶴蔵之が工程を報告するの光栄を担う、国に歴史なくんば国民愛国の誠を舒ぶるに由なく、里に開基の跡瞭かならざれば郷党亦愛村の念を涵養ふを得ず、我村開基僅かに三十年を出でずして先住の事績漸く其明を欠かんとするを惟ふ時又百年の後、之が晦亡を懸念せざらん、之れ記念事業の企画を見たる所以なり。而して荏苒沃せずして年所を経たり。会々開基三十年の迫るに及んで建碑の議漸く熟し、昨大正十四年十月始めて委員会を設け、之が実現の方法を練り、本年五月進んで実行の期に入る。爾来、委員会の組織、人員の異動、事業経費の増加設計の改変を見る事数次に及ぶ。之れ事業の最善を期する所以に他ならず、村長を押して委員長となし、副委員長以下二十四名の委員之に参与し、協力一致今日に至る迄、実に一年三ヶ月を経たり。設計者は札幌なる鈴木三次郎氏にして、工事は十勝の人、加藤鶴松氏の請負施工するところ、而て委員田中安太郎氏建碑係長として当面の責に任じ、委員脇文吉、河原田万蔵の二氏、工事監督として努力最も力めたり。着手九月二十五日、竣功十一月二十二日、時恰も晩秋、時雨風雪交々到り、天候頗る不良、大ひに工事の進捗を阻害したるに不拘、万難を排して竣功を見たるは監督の精励は元より、請負者亦大ひに力めたりと言ふ可し。今工事の概要を陳ぶれば次の如し。 
 碑石は海内に名声を馳する陸前国稲井の産石にして高さ一丈五尺八寸、幅六尺八寸、厚一尺、重量七噸八分、運賃を合して価格八百三十九円、基礎は高さ七尺八寸、幅員二丈六尺、方形にして、道内の珍たる十勝国産花崗石を用ゆること一千六十八才、加うるに玉石十七坪、混凝土七十坪を以てし、費用三千三百二十五円を要せり。
 而して更らに金二百二十円を投じて碑前の溝に架するに同じく花崗石の橋梁を以てし、一段の景観を添へたり。以上合計四千三百八十四円にして間接に要したる雑費九百円を累算するとき総工費実に五千二百円を出づ。
 碑文は北海道帝国大学総長・佐藤昌介閣下の題並に撰に成り、其撰文は三浦翠山氏の揮毫する所。而して碑陰に刻するにの開基者たる屯田戸主一百九十九外一名の氏名を以てす。小川多聞氏の書するところなり。
 而して地域を相して此処に建設する亦故あり。此地元屯田練兵場の一角にして、実に村基発祥の霊地、曽つて彼等が烈々たる炎熱の下、皚々たる凍雪の上、千辛屈せず万苦撓まず武を練り技を鍛へたる処、由緒寔に深し、想つて茲に到れば脈々たる血液勃然として高潮し、切々たる感慨、蔚然として湧起し来るを覚ゆ。
 今幕を除ひて竣成の碑前に立ち、仰ひで其出来栄を見るに、地を抜くこと二丈五尺三寸、巍々乎たる雄姿、平原を圧して屹立し威風堂々、荘厳の気村内に溢るるを見る。而して碑や姿態端麗にして清高、暗黙の裡、自ら先住者の功績を語るが如く、基石は稜骨岩々、曽つて彼等が嘗め来れる堅忍不抜の精神を表はすに似たり。堅牢真に無比、雨露も侵す能はざるべく風雪も亦損する能はざる可し。以て千載に伝へて後昆子弟を感奮興起し開祖の恩頼を景仰せしむるに足らむ。
 聊か所感を加へて報告と為す。

 大正十五年十二月一日

 相内村開基三十年記念事業副委員長  河原 鶴蔵

※この工事報告文は『相内村史』(昭和25年3月20日)の記載によります。ただしカタカナをひらがなに、旧漢字を現行のものに改めました。かなづかいの表記の揺れは、そのままとしました。

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