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2017/04/18

河原鶴造立像


 相内神社に隣接する相内公園に、旧相内村第三代村長・河原鶴造さんの立像があります。昭和31年9月建立。

 神社の参道の方を向いて立っており、ご本人を知る人に聞くと、この像そっくりの方だったそうです。

 相内村の発展に多大な功績を残した河原さんは、明治10年1月10日、鳥取県東伯郡長瀬村大字水下村の生まれ。同31年9月屯田兵として移住、36年屯田兵の現役解除時には歩兵軍曹。日露戦争時は北韓軍に属して功有り、勲七等青色桐葉章を受章。その後、北海道庁林務課勤務、帝室林野管理局技手をへて大正4年に相内へ帰村。呉服太物商を営み、昭和8年9月14日より同20年9月9月13日まで村長を勤められました。

 侠気に富み、動作は俊敏、喧嘩や口論があると聞くと、すぐ和服の裾を割って尻はしょり、裸足で仲裁に駆け出したそうです。日記の扉には「無クテハナラヌ人トナルカ、有ツテハナラヌ人トナルカ」「牛羊トナツテ人の血肉ニ化セズンバ豺狼トナツテ人ノ血肉ヲ啖ヒ尽セ」とあったそうで、激しい気性の方だったようです。

 昭和16年4月22日の相内村大火の際には出張中。当時の国鉄池田線上での帰路、旭川新聞で自宅の焼失を知り、上常呂駅に出迎えに来ていた長女から、寝たきりの夫人が小学校長宅に避難したと聞きました。そこまで知るとあとは自分の身の上はかまわず、相内に戻ってすぐに焼跡を40分ほど視察、それから村役場へと向かう途中に自宅の焼跡の横を通っても足を止めず、顔すら向けなかったそうです。

 私にとっても河原さんは非常に大事な方で、河原さんが『相内村史』を編集、また私家版として『相内村に於ける神明祭祀の起源と沿革 神社神域の地区と周辺造営物の由緒』という記録を残してくださっていたので、神社の昔のことを知ることができ、大いに助かっています。


 この「勤倹力行」の墨蹟は河原さんのもので、当神社御社殿内にあります。参拝される方にとっては背後になりますので、なかなか気づきにくいかもしれませんが、ご参拝の際にはぜひ、ごらんください。
 丙寅夏日とあるのは、大正15年。約90年前です。「狂水」は河原さんの雅号。漢詩や川柳、短歌もたしなまれ、各種の記録の中で作品をときおり目にすることがあります。


参考文献
『覆刻版 相内村誌』斎藤隆、平成21年
『北見市開基100年記念 ふるさとの歴史を訪ねて』清水昭典、平成8年、北見市

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