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2017/07/17

境内社・相馬神社例祭をとりおこないました


 本日午前10時30分より、当神社の境内社・相馬神社の例祭を、無事とりおさめました。
 相馬神社については輪番制で祭典委員会を運営、本年は美園地区が担当。朝早くから草刈りを初め、諸準備をしていただきまして、ありがとうございました。
 宮司も昨日お宮の中を大掃除しまして、拝殿内に残るさまざまな方の奉納品を拝見しました。
 日露戦争の戦勝、無事帰還できたのを感謝してのレリーフ、すぐ近くにお住まいの方のお婆ちゃんが奉納された御鈴、美園地区から遷座された(移転)際の集合写真など、先人の足跡がここにも残されています。
 もと相馬神社は美園神社と申しまして、名前の通り美園地区にあったのですが、氏子数減少のため部落総出で現在地へとお遷し申し上げたと、北見市史関連の書籍に書かれています。私も読んだのですが、残念なことに細かいところまでは分かりませんでした。
 ところが前述の写真には、昭和32年11月2日としっかり日付が書かれ、運搬に使われた馬の名前がヨジローだったこと、その馬主さんの名前も書かれていました。写っている神職はまぎれもなく当社の初代宮司。
 神社というところは、皆さんよりさまざまな奉納品をいただいて成り立っている部分もあります。この写真についても、どなたかが記念に撮影して奉納しようと考えたからこそ、こんにちでも遷座の経緯を知ることができます。奉納されたものを大切にしてゆかねばならないなと感じた次第です。

2017/04/21

相内神社の狛犬

  ご社殿に向かって右側の獅子(阿像)。相内神社の場合、獅子も狛犬も似た姿をしています。












 ご社殿に向かって左側の狛犬(吽像)。いずれも奉納は昭和30年。

2017/04/20

相内神社の鳥居


 相内神社には三つの鳥居があります。
 まずは国道沿い、参道正面にある鳥居。この右側には「相内神社」と刻まれた社号票があります。
 この鳥居は銅板葺、銅はやまとことばでアカガネというように赤っぽく、この鳥居も建立当初はそうだったのですが、いまは酸化してこんな色になっています。




 参道をすすんで半ばあたり、右側には境内社の三吉神社があり、その前にも鳥居があります。
 この鳥居は素木(しらき)、木をそのまま利用して組み、鳥居としたものです。









 御社殿の右手には、同じく境内社の相馬神社があって、その前にも鳥居が建っています。
 この鳥居も素木で、写真では見にくいかもしれませんが上部にどこからか木の種が飛んできて根づいたらしく、最近枝状のものが生えてきました。
 塗装したり、防腐剤をぬったりしているなら、こんなことはありません。もっとも、自然なままだから素木の方がいいかというと、必ずしもそうではありません。一長一短です。

2017/04/19

平和祈念碑(忠魂碑)


 相内神社に隣接する相内公園には、平和祈念碑があります。これは当初、忠魂碑として建立されたもので屯田区有財産、及び相内村有志の浄財によって、大正13年10月16日竣功、除幕式。合わせて招魂祭。以来、毎年9月15日に招魂祭を行っていました。
 場所は御社殿に向かって左手、南面して国道の方を向き、神社の参道をはさんで開拓記念碑とだいたい同一線上にあります。
 上部の「碑」の部分は十勝産花崗岩の自然石、下部の台石は同じく花崗岩の切石。最下部の礎石は留辺蘂産の軟石。側面(神社側)には建立に携わった人々の名前が刻まれています。

 碑石の高さは約2.3メートル、基礎の高さは約4.8メートル。基礎の外郭は一辺約7.7メートルの方形です。

 もとの題字「忠魂碑」は竣功当時の第七師団長・国司伍七中将が揮毫した書で、それが終戦後に改められました。写真にもある「平和祈念碑」の題字は、元屯田兵の河原鶴造・相内村第3代村長によるものです。

 同様に、かつては日露戦役の戦死者9名(元屯田兵7名、その他2名)と他1名の名前や勲等を、碑の左側に刻んでいたといいますが現在は何もありません。平和祈念碑と題字が改められた時期に、削られてしまったのかもしれません。

『相内村誌』(斎藤隆、平成21年)には上記計10名の名前などが載っていますので、引用してここに顕彰したいと思います。名前の右は亡くなった年月日、場所です。

陸軍歩兵一等卒・勲八等/服部清吉/明治37年12月5日/旅順
陸軍歩兵上等兵・勲八等/柳田末吉/明治38年3月8日/奉天付近
陸軍歩兵上等兵・勲八等功七級/渡邊市太郎/明治38年3月9日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/山下増芳/明治38年3月9日/奉天付近
陸軍歩兵上等兵・勲八等/石井丑吉/明治38年3月10日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/真野元次郎/明治38年3月10日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/那須為三郎/明治38年3月10日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/小田島藤太郎/明治38年6月16日/遼陽窩棚
陸軍歩兵一等卒・勲八等/林幸作/明治38年11月5日/戦傷後東京にて病死
海軍一等機関兵/中川乙松/明治45年7月15日

 なお、河原さんは「(忠魂碑への題字の)復原の日を待つのみ」と言い、「大東亜戦争の殉国者百余名の英霊を追祀する議あるも、いまだその氏名を刻記するに至らず。その実現の期の早からん事を望むのみ」とも言っています。

2017/04/18

河原鶴造立像


 相内神社に隣接する相内公園に、旧相内村第三代村長・河原鶴造さんの立像があります。昭和31年9月建立。

 神社の参道の方を向いて立っており、ご本人を知る人に聞くと、この像そっくりの方だったそうです。

 相内村の発展に多大な功績を残した河原さんは、明治10年1月10日、鳥取県東伯郡長瀬村大字水下村の生まれ。同31年9月屯田兵として移住、36年屯田兵の現役解除時には歩兵軍曹。日露戦争時は北韓軍に属して功有り、勲七等青色桐葉章を受章。その後、北海道庁林務課勤務、帝室林野管理局技手をへて大正4年に相内へ帰村。呉服太物商を営み、昭和8年9月14日より同20年9月9月13日まで村長を勤められました。

 侠気に富み、動作は俊敏、喧嘩や口論があると聞くと、すぐ和服の裾を割って尻はしょり、裸足で仲裁に駆け出したそうです。日記の扉には「無クテハナラヌ人トナルカ、有ツテハナラヌ人トナルカ」「牛羊トナツテ人の血肉ニ化セズンバ豺狼トナツテ人ノ血肉ヲ啖ヒ尽セ」とあったそうで、激しい気性の方だったようです。

 昭和16年4月22日の相内村大火の際には出張中。当時の国鉄池田線上での帰路、旭川新聞で自宅の焼失を知り、上常呂駅に出迎えに来ていた長女から、寝たきりの夫人が小学校長宅に避難したと聞きました。そこまで知るとあとは自分の身の上はかまわず、相内に戻ってすぐに焼跡を40分ほど視察、それから村役場へと向かう途中に自宅の焼跡の横を通っても足を止めず、顔すら向けなかったそうです。

 私にとっても河原さんは非常に大事な方で、河原さんが『相内村史』を編集、また私家版として『相内村に於ける神明祭祀の起源と沿革 神社神域の地区と周辺造営物の由緒』という記録を残してくださっていたので、神社の昔のことを知ることができ、大いに助かっています。


 この「勤倹力行」の墨蹟は河原さんのもので、当神社御社殿内にあります。参拝される方にとっては背後になりますので、なかなか気づきにくいかもしれませんが、ご参拝の際にはぜひ、ごらんください。
 丙寅夏日とあるのは、大正15年。約90年前です。「狂水」は河原さんの雅号。漢詩や川柳、短歌もたしなまれ、各種の記録の中で作品をときおり目にすることがあります。


参考文献
『覆刻版 相内村誌』斎藤隆、平成21年
『北見市開基100年記念 ふるさとの歴史を訪ねて』清水昭典、平成8年、北見市

2017/04/17

境内社・相馬神社


 相馬神社は相内において最も歴史のある神社といえます。
 屯田兵が入植した直後の明治31年9月、当時の二区(現在の北見市美園の大部分)に遥拝所が設置され、毎年春秋二度、お祭りをとりおこなっていました。
 明治36年に屯田兵は現役解除、後備役となると、遥拝所は二区所属となり、西側山麓の空気の澄んだところに御社殿を御造営。これは現在の西18号線、灌漑溝の北側付近にあたります。

 例祭は春6月15日、秋は10月15、16日。盛大にとりおこなってきましたが、人口の減少にともない、護持運営に今後不安が残ることを見越して、相内神社境内へ御遷座されることになりました。

 昭和32年11月2日、美園部落こぞって馬車を出し、御社殿を丁重に運び申し上げ、現在地に御遷座されました。

 現在は7月17日を例祭日とし、祭典委員会を設けて、相内・豊田・美園の三地区の輪番で祭典をとりおこなっています。

2017/04/14

神楽殿(旧豊田神社)


 相内神社の神楽殿は、かつての豊田神社の御社殿を流用したものです。
 豊田神社は明治36年、屯田兵が現役解除になったのにともない、地域の小祠として創祀。春秋の二度、例祭をおこない、特に秋は土俵をつくって奉納相撲をしたり、舞台をつくって田舎芝居をしたり、仮装行列をしたりと、住民にとって、日頃の労働から解放される年に一度の楽しみとなっていました。

 鎮座地は現在の西24号線の灌漑溝北側。今も残っているかつての御社殿は大正年間の建立。向拝上部の彫刻がすばらしいです。

 現在地への御遷座は昭和42年。豊田部落総出でご奉仕申し上げました。

2017/04/13

境内社・三吉神社

 相内神社の境内社・三吉神社はもと北見地方秋田県人会によって、昭和10年10月15日、北見市美芳町に御造営されました。昭和34年、北見市の市街化計画の区画整理の対象となってしまったのにともない、相内神社へ御遷座されたものです。

 なぜ相内神社だったかというと、当神社初代・今村政男が昭和10年の御造営にたずさわった御縁によります。御造営当時は当時の秋田県人会代表で、名物豆腐屋といわれた瀬川勇助さんらが世話役となり、今村宮司と末永く大切に祀ることを約束したそうです。

 当神社へ初めて三吉神社が御遷座されたときは、現在の社務所裏あたりにあったのですが、昭和34年に社務所が新築されると、その裏になってしまったので、秋田県人会ではさらに別な場所へお遷ししようと呼びかけ、昭和50年11月22日、現在地へ御遷座となりました。

 北見地方秋田県人会は大正4年2月発足。会員同士の結束力がつよく、季節ごとに集まってにぎやかに毎年6月に例祭をとりおこなってきましたが、会員数の減少、高齢化にともなって平成28年6月をもって解散しました。

 かといって今村初代宮司の約束もありますし、お祭りを絶やすわけにはいきません。今後も年に一度の例祭をとりおこなって参ります。

2017/04/12

屯田兵の練兵場


 相内神社の境内地は昔、屯田兵の練兵場でした。「屯田兵村」は北海道遺産になっていまして、神社北側の原っぱに写真のような案内板が立っています(地図中の「現在地」の場所です)。
 案内板の「上野付牛兵村」は屯田兵移住直後の名称です。
 地図を見ると、往時のようすが一目瞭然、よく分かります。さすがによく調べてありますね。



 右は上の看板にある地図の拡大。神社は練兵場のどまんなかになっています。
 神社のすぐ北側の「相内公園」と書かれている場所は、大部分が芝生、一部分が土の地面でゲートボール場としてよく使用されています。昔はこの公園で草競馬をしたり、町内会対抗の運動会をしたりしたそうで、楽しみにしていた人がたくさんいたと聞いたことがあります。




 左の写真は相内公園の南東隅から北西方面を撮ったもの。かつては前方の山の方を目印に射撃訓練を行っていたそうです。
 上の地図によると、このさらに北側に射撃場があったようです。現在は個人の農地になっていますので、入ることはできません。地図上の「的場」はこの写真の山の方向で、そう当時と見え方は違わないんじゃないかなと思います。
 公園の四周や西十九号線に沿って桜が植えられており、五月上旬の開花時の景色は、みごとなものです。

2017/04/11

開拓記念(拓荒殖産)碑


 相内神社の御社殿の向かって右手、公園内に開拓記念碑(拓荒殖産碑)があります。大正15年9月25日起工、11月22日竣功、12月1日除幕式をとりおこないました。総工費は五千二百円。
 碑石は陸前国稲井の産石で高さ約4.8メートル、幅は約2メートル、厚さ約30センチ、重量7800キロ。その下部は十勝産の花崗岩で、高さは約2.3メートル、幅は約7.9メートル。地上からの高さ約7メートル。


 創建時はさらにその下に、玉石56.2平方メートル、コンクリート231平方メートルを敷き詰めていました。
 碑文の題と撰は当時の北海道帝国大学総長・佐藤昌介の手になり、三浦翠山が揮毫。碑面の背後には相内村の開基者である屯田兵の戸主199名、他1名の氏名があり、これは小川多聞の書。
 もともと相内神社の境内地はすべて、屯田兵の練兵場でした。夏の暑さや冬の寒さに耐えて訓練を行ってきた地、汗の染み込んだこの場所こそ、記念碑を建立するのにふさわしいと判断されたようです。


(参考)碑文の大意

 遠くふるさとを離れてへんぴな地に移り住み、不毛な土地を切り開いてさまざまな産業を起こす。その志は壮大で、その業績は偉大だというべきでしょう。
 北見国常呂郡相内村はもともと、原生林の広がる不毛の地でした。明治30年6月、根室国和田村の屯田歩兵第四大隊の本部を北見に移し、第三中隊をこの地に置きました。府県に兵戸100を募集して屯田兵とし、翌年9月、また100戸を募集して合流させました。これを相内村の初めとします。
 屯田兵は募集に応じるとみな、北の大地を開拓せよとの大御心をいただき、決然として故郷を離れました。それ以来、強い風や激しい雨をものともせずに、朝晩武を練り、大木を伐採、開墾にたいそう励み、そう時間もたたないのに立派な集落を築きあげました。
 34年には灌漑溝の幹線、総延長4里(約15.7キロ)を掘り進め、翌年竣工しました。それで水田の収穫があがり、たちまち豊かな農村となりました。
 36年3月には、屯田兵の兵期が満了して解隊。後備役に編入されましたが、37、38年の日露戦争には召集に応じて出征し、国家のために力を尽くしました。
 43年2月には、屯田部落の所有地から138町歩(約1.4平方キロ)を割いて、学校基本財産として寄付。
 大正10年4月、相内は野付牛町(現・北見市)より分かれて独立の村となり、二級町村制を施行。15年6月には、工費65,000円を投じて、尋常高等小学校を改築し、7月、相内屯田土功組合を設け、公共事業として日ごとに進展、ためになっています。
 これより先の明治44年10月、池田・網走間に鉄道が初めて通じ、翌大正元年11月、湧別線がまた完成、交通の便がたいへんよくなりました。それで移り住む者が年々増加し、今は全村数えると実に700戸、4200人、田圃2200町歩(約217.8ヘクタール)。生産年額65万円。まことにさかんというべきでしょう。
 今ここに丙寅(碑落成の大正15年)、開村30年に際し、村民がたがいに相談し、碑を建てて記念としようとして私のもとへ来て依頼しました。壮大なる屯田兵の意気や、業績はなはだしく、諸産業の発展に大きな貢献をしたと聞き、喜んで事績のあらましをすぐに良石へと書き記し、また、この事績は永遠に語りつがれるでしょうと申します。

(参考)碑文の書き下し文

 遠く桑梓を辞して、遐荒(かくわう)に移住し、不毛を闢(ひら)きて国産を殖う。その志や壮にして、その業や偉なりと謂(い)ふべし。
 北見国常呂郡相内村は元、榛蕪不毛の地に属す。明治三十年六月、根室国和田村の屯田歩兵第四大隊本部を北見に移し、第三中隊を此の地に置く。府県に兵戸一百を募り、以って屯せしめ、翌年九月、また一百戸を募りて移す。これをして本村殖民の嚆矢と為す。
 初め屯田兵その募に応ずるや、いづれも皆、北彊開拓の聖旨を体し奉り、決然墳墓の地を辞して、而来、櫛風沐雨、日夕武を練り、榛を伐り、墾闢に誅奔し、はなはだ努めて、いまだ幾(いくばく)ならず菑畬、功成る。
 三十四年、灌漑溝の幹線、延長四里を掘鑿、翌年竣工す。是において、水田また随ひて開き、たちまち一農邑と成れり。
 三十六年三月、兵期満ちて解隊編入、後備役に編入さる。三十七、八年の役に充員の召集に応じて出征、国家のために力を竭(つく)す。
 四十三年二月、屯田部落の所有地、一百三十八町歩を割きて、学校基本財産に供す。
 大正十年四月、官、野付牛町を割きて独立の村邑と為し、二級町村制を布(し)く。十五年六月、工費六万五千円を投じて尋常高等小学校を改築し、七月、相内屯田土功組合を設け、官允事業を得て日に進みて為となる。
 是れより先、明治四十四年十月、池田・網走間に鉄道始めて通じ、翌大正元年十一月、湧別線また成り、交通の便、頓(とみ)に開く。移民年を遂ふて増加し、今や闔村の実算、七百戸、四千二百人、田圃二千二百町歩。生産年額六十五万円。まことに盛んと謂(い)ふべし。
 今ここに丙寅、開村三十年に際し、村民胥(たがひ)に謀り、碑を樹(た)てて以ってこれを表せんと欲し、予が文を来たりて請ふ。予すでに壮なる屯田兵移住の意気、かつ業績甚(はなはだ)しく、増殖国産尠(すくな)からざるを挙ぐると聞き、すなはち喜びて事績の梗概を貞石に勒し、以って之を伝ふるに不朽なりと云ふ。

(参考)碑文(原文)

遠辞桑梓而移住遐荒闢不毛而殖国産可謂其志也壮而其業也偉矣北見国
常呂郡相内村元属榛蕪不毛之地明治三十年六月移根室国和田村屯田歩
兵第四大隊本部於北見也兮置第三中隊於此地募兵戸一百於府県以屯翌
年九月又募一百戸而移為是為本村殖民之嚆矢矣初屯田兵之応其募也孰
皆奉體北彊開拓之 聖旨決然辞墳墓之地而来櫛風沐雨日夕練武伐榛誅
奔墾闢太努未幾菑畬功成三十四年掘鑿灌漑溝幹線延長四里翌年竣工於
是水田亦随而開忽成一農邑矣三十六年三月兵期満解隊編入後備役三十
七八年役応充員召集出征為国家竭力四十三年二月割屯田部落所有地一
百三十八町歩供学校基本財産大正十年四月官割野付牛町為独立村邑布
二級町村制十五年六月投工費六万五千円改築尋常高等小学校七月設相
内屯田土光組合得官允事業日進為先是明治四十四年十月池田網走間鉄
道始通翌大正元年十一月湧別線亦成交通之便頓開移民遂年増加今也
村実算七百戸四千二百人田圃二千二百町歩生産年額六十五万円寔可謂
盛矣今茲丙寅際于開村三十年村民胥謀欲樹碑以表之来請予文予既壮屯
田兵移住之意気且聞業績甚挙増殖国産不尠乃喜勒事績之梗概於貞石以
伝之不朽云

大正十五年丙寅九月中浣
 北海道帝国大学総長正三位勲一等農学博士佐藤昌介 題並撰


(参考)相内村開基三十周年記念式典中、建碑除幕式における工事報告

 相内村開基三十年記念事業ノ随一たる開村記念碑功成り、茲に序幕の式典を挙るに当り不肖鶴蔵之が工程を報告するの光栄を担う、国に歴史なくんば国民愛国の誠を舒ぶるに由なく、里に開基の跡瞭かならざれば郷党亦愛村の念を涵養ふを得ず、我村開基僅かに三十年を出でずして先住の事績漸く其明を欠かんとするを惟ふ時又百年の後、之が晦亡を懸念せざらん、之れ記念事業の企画を見たる所以なり。而して荏苒沃せずして年所を経たり。会々開基三十年の迫るに及んで建碑の議漸く熟し、昨大正十四年十月始めて委員会を設け、之が実現の方法を練り、本年五月進んで実行の期に入る。爾来、委員会の組織、人員の異動、事業経費の増加設計の改変を見る事数次に及ぶ。之れ事業の最善を期する所以に他ならず、村長を押して委員長となし、副委員長以下二十四名の委員之に参与し、協力一致今日に至る迄、実に一年三ヶ月を経たり。設計者は札幌なる鈴木三次郎氏にして、工事は十勝の人、加藤鶴松氏の請負施工するところ、而て委員田中安太郎氏建碑係長として当面の責に任じ、委員脇文吉、河原田万蔵の二氏、工事監督として努力最も力めたり。着手九月二十五日、竣功十一月二十二日、時恰も晩秋、時雨風雪交々到り、天候頗る不良、大ひに工事の進捗を阻害したるに不拘、万難を排して竣功を見たるは監督の精励は元より、請負者亦大ひに力めたりと言ふ可し。今工事の概要を陳ぶれば次の如し。 
 碑石は海内に名声を馳する陸前国稲井の産石にして高さ一丈五尺八寸、幅六尺八寸、厚一尺、重量七噸八分、運賃を合して価格八百三十九円、基礎は高さ七尺八寸、幅員二丈六尺、方形にして、道内の珍たる十勝国産花崗石を用ゆること一千六十八才、加うるに玉石十七坪、混凝土七十坪を以てし、費用三千三百二十五円を要せり。
 而して更らに金二百二十円を投じて碑前の溝に架するに同じく花崗石の橋梁を以てし、一段の景観を添へたり。以上合計四千三百八十四円にして間接に要したる雑費九百円を累算するとき総工費実に五千二百円を出づ。
 碑文は北海道帝国大学総長・佐藤昌介閣下の題並に撰に成り、其撰文は三浦翠山氏の揮毫する所。而して碑陰に刻するにの開基者たる屯田戸主一百九十九外一名の氏名を以てす。小川多聞氏の書するところなり。
 而して地域を相して此処に建設する亦故あり。此地元屯田練兵場の一角にして、実に村基発祥の霊地、曽つて彼等が烈々たる炎熱の下、皚々たる凍雪の上、千辛屈せず万苦撓まず武を練り技を鍛へたる処、由緒寔に深し、想つて茲に到れば脈々たる血液勃然として高潮し、切々たる感慨、蔚然として湧起し来るを覚ゆ。
 今幕を除ひて竣成の碑前に立ち、仰ひで其出来栄を見るに、地を抜くこと二丈五尺三寸、巍々乎たる雄姿、平原を圧して屹立し威風堂々、荘厳の気村内に溢るるを見る。而して碑や姿態端麗にして清高、暗黙の裡、自ら先住者の功績を語るが如く、基石は稜骨岩々、曽つて彼等が嘗め来れる堅忍不抜の精神を表はすに似たり。堅牢真に無比、雨露も侵す能はざるべく風雪も亦損する能はざる可し。以て千載に伝へて後昆子弟を感奮興起し開祖の恩頼を景仰せしむるに足らむ。
 聊か所感を加へて報告と為す。

 大正十五年十二月一日

 相内村開基三十年記念事業副委員長  河原 鶴蔵

※この工事報告文は『相内村史』(昭和25年3月20日)の記載によります。ただしカタカナをひらがなに、旧漢字を現行のものに改めました。かなづかいの表記の揺れは、そのままとしました。