Translate

ラベル 相内の歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 相内の歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019/05/29

屯田兵の生活

 屯田兵は移住に際し、家屋、土地、食糧、農具などの官給品が与えられ「比類なき恩典」ときいてきたそうです。では、じっさいにはどうだったのでしょうか。

 『相内村史』(23-27頁)に当時の状況が書かれていましたので、支給品等について、ご紹介してみましょう。

家屋

木造柾葺平屋で建坪17.5(57.9平方メートル)、うち15坪(49.6平方メートル)は5間かける3間の本屋、それに下屋・便所2.5坪(8.3平方メートル)が付属。内部は6畳と4畳半の二部屋。畳建具つき。4畳半の部屋には9尺(約2.7メートル)の押入がついていました。6畳の方は囲炉裏つきで板敷き。

 ほか家屋の内部には土間があり、流しが付属。広さは7.5坪(24.8平方メートル)で、収穫物のとりいれ作業や貯蔵につかわれました。

 天井板がなく、冬季は隙間から雪が入り、布団の上に積もるなど、けっして快適ではありませんでした。

家具や夜具

鍋大小1 茶碗5 手桶1 小桶1 担桶1 ひしゃく1 灯具1 鉄瓶1 布団計5

農具

鍬大小1 唐鍬大2、小1 砥石、荒砥、中砥、鎌砥各1 なた1、やすり2 斧1 のこぎり大小1 鎌、草刈、柴刈各1 むしろ20 熊手2 培養桶1 ほか4戸につき唐箕1、6戸につき臼と杵各1

種子

以下を現品で支給されるはずが、代品や代金で支給されたものもあったそうです。

・1斗を支給 麻種子 大麦 小麦 大豆
・5合を支給 小豆
・ほか、じゃがいも4斗、蚕卵紙4枚半

※1斗は約18リットル、5合は約9リットル

食料

一戸につき5人まで、到着、移住の日から数えて満5年間、食料が支給されました。満5年を2年、1年、2年の三期に分け、満14歳~60歳を甲、61歳以上と満7歳~13歳を乙、満7歳未満を丙と区分しました。

第1期(2年)
甲 玄米2斗2升5合 塩菜料45銭
乙 玄米1斗5升      塩菜料30銭
丙 玄米9升           塩菜料21銭

第2期(1年)
甲 玄米1斗3升5合 塩菜料30銭
乙 玄米9升         塩菜料21銭
丙 玄米5升4合        塩菜料15銭

第3期(2年)
甲 玄米4升5合    塩菜料7銭5厘
乙 玄米3升         塩菜料4銭5厘
丙 玄米1升8合        塩菜料3銭

食料・塩菜料は足りていたか

まったく足りていなかったようです。まず食料は一戸につき5人までですが、当時は平均して一戸ほぼ7,8名でありました。そのうえ粗悪品が支給されることもあり、子弟教育のため積み立てるとの名目で、この支給額から天引きもされていました。

 移住後、すぐに作物がとれるわけではなく、最初の一年は野草を、特にフキをとってきて、ごはんのかさを増していました。二年目からは収穫されたじゃがいもに変わりましたが、ほかの作物、物品が不足しているため、芋味噌、芋餅、芋飯と何にでもじゃがいもをつかっていました。それで当時、商人や漁師からは「ごしょいも屯田」とバカにされたそうです。「ごしょいも」はじゃがいものこと。

 だんだん開拓がすすんでくると豆、麦、キビなどとれるようになりましたが、支給米の量がぐんと減ったので特別なときしか米は食えず、5年で満期を迎えたのちは、まったく米を食えない人がほとんどだったそうです。

 塩菜料もしても同様でした。

 一戸あたりの平均支給額は、月額にして第一期でほぼ1円50銭、第二期は22銭、第三期は25銭ほど。

 明治~平成値段史というサイトによると、明治33年(1900)では第一期の金額で白米10キログラム、第二期と第三期では砂糖1.5キログラム、たまご10個、ビール大瓶1本、そば・うどん10杯ほどになります。

 北海道の僻地までの運送料を加味すると、買える分量はこれより少なかったに違いありません。

2019/05/21

相内の災害史

 こんにちは。昨日の強風が止んだと思ったら、今日はひさしぶりに雨もようの天気です。

 先日、北見市の洪水ハザードマップが投函されていたので、見てみますと、相内神社の御鎮座地は、百年に一度の豪雨では浸水せず(画像)、千年に一度では50センチから3メートル未満、となっていました。

 ここ数日、南日本での豪雨や東京でも五十年に一度の大雨があり、そんな中でハザードマップが投函されたので、タイムリーというと叱られてしまうかもしれませんが、このような事情で防災について考えさせられました。

 北見市にもどりますと市街地南方の無加川はなかなか氾濫しないようですが、広く氏子区域全体を見ると田んぼや畑が多いので、許容量を越えて水があふれる、ということなのでしょう。日ごろから防災意識を持たねばと思っているところであります。

 それに加えてことしは亥年、災害が多いという話をちらほら聞きます。そこでちょっと過去が気になりましたので『相内村史年表』をもとに、自然災害の歴史をふりかえってみたいと考えた次第であります(ただし同書は旧相内村関連の年表ですので、期間は明治末~昭和32年まで)。

晩霜と早霜

明治41年(1908) 7月1日に降霜。
大正2年(1913) 6月27日の霜で農作物全滅、秋には9月15日に早くも霜が降りる。
大正11年(1922) 6月27日に霜が降りる。
昭和15年(1940) 早霜で水田が平年の半作に。
昭和29年(1954) 8月に霜が降りる。

冷害

大正15年(1926) 冷害と雹害が多く、稲穂が立ち枯れ。
昭和6年(1931)~7年(1932) 夏期低温で稲作、畑作とも大打撃。
昭和20年(1945) 主要作物の収穫が皆無。
昭和31年(1956) 6月と8月が特に寒く、夏季の降雨量が平年の二倍。

水害

明治31年(1898) 9月7日から8日にかけ集中豪雨、河川氾濫。
明治42年(1909) 豪雨で河川氾濫。
大正2年(1913) 8月27日より28日にかけ暴風雨、河川氾濫。
大正11年(1922) 8月23日より豪雨、武華(無加)川が氾濫して橋が落ちる。鉄道が不通に。農地の被害も甚大。

吹雪・大雪

大正11年(1922)5月5日 季節外れの大雪。
昭和21年(1946)3月8日~9日 北相内国民学校(当時)休校。
昭和29年(1954)1月30日 北相内小学校(当時)休校。
昭和32年(1957)3月10日 富里小学校(当時)が四日間休校。

 こうして見ると、上記期間では相内において「亥年は災害が多い」とはいえないようです。

 私がこちらに赴任する前ですが、15年前の平成16年、1月13日夜から16日にかけ171センチメートルの降雪があったと、いまでも語り草になっています。雪がやんだから即元通りの生活となるわけではなく、除雪に一週間以上かかったそうです。これは150年に一度の豪雪だったとのこと。

 また昨年の大地震で、北海道内皆、停電したのも記憶に新しいところ。この周辺では大きな地震はないのですが、備えあれば憂いなしで、このハザードマップも社務所に貼っておくことにいたします。

2017/04/28

屯田の頃5

早田ミシヨさん(明治23年生、屯田兵妻女)の話

 私8つで来ました。私の本当の名はミスヨというのでしたが、私たちの班の班長さんが山形県の人だったので、スをシと間違いてミシヨになったのです。

 私の国は広島県です。そして九州の人のところへ家に行ったんです。九州の久留米の人のところへ17のときでした。

 はじめ4月に来るはづだったのが9月になったでしょう。それからあっちこっちで兵隊をひらって(拾って)来たでしょう、だからおそくなってしまって、着いたときは何もないでしょう。カイベツとったあとのいらんところの青いところだけ残っているの。そういうところもらって、お汁のみにしたり、母親がないので父親がイモの屑もらって皮もむかんでおやつにゆでておいてくれて、それ重箱に入れて大事にしていただきました。それが今きくとさきの藤沢さんの帯になったのでしょう。私が8つ姉が12でしたが、その2人が家にいてご飯支度をするんでした。鍋なんか1人でもたれんから、2人が両方からつるもってかけたり、はづしたりして、ごはんたきしたんです。そのご飯もおひるだけお米で、あとは色々イラクサや何か入れたお粥ですもの。蕗がでれば蕗を刻んで入れて、お粥をすゝって大人は開墾に出たもんです。戸主さんは兵隊に行くし。学校はそんなありさまですから、行ったり行かなかったり、時々行く程度でしたが、別にやかましくもありませんでした。それでも時々やってもらいましたから、何とか仮名だけは用が足りますが。何しろあついところから寒いところへ来たものですから、寒さが一番こたえました。山形県の人は綿入れなんかを着ますが、吾々は綿の入ったものといったら袖無だけよりないのですもの。せいぜいあわせか単衣でしょう。もう寒くなると山形の人が綿の入ったの着てあるくの見るとけなるくて(うらやましくて)つくってもらいたくとも母親はいないし、子供2人ですもの、母親は4月に来るといったが、9月までのびている間に亡くなったんです。今更やめるわけにもいかず、父親もこまったでしょう。

 網走では又十の倉庫に泊って、そこからは雨にふられてふられて、一寸そこまでだというので父親は柳行李を背負って、私達はもんぺもないし、尻をはしょっておこしだけでビジャビジャビジャビジャ歩いて、端野のお寺に夜ついて、びっしょり濡れたの着換えはないし、父親が火鉢ですっかりかわかして、それまた着て次の日こゝに着きました。どこが家があるんだか、木と葡萄蔓がからまって何も見えんのです。ヒョコヒョコと人が出てくるから、あらっこんなところにも家があるのかと思いました。戸主さん達でも夜になったら家から出られませんでした。用は窓から窓へどなって連絡したものです。まアまア麻の中に家たてたようなものさね。それ百姓だけでなく、ソーメン屋もあれば染屋もあるというのでしょう。そんなだから、大きな木なんかしばらく立ったまゝでした。

 この通11軒ありましたが皆国がちがふんでしょう、まづ言葉がわからんで、お前馬鹿だといわれても、ハイハイと返事するよりないんです。本当にまア。

 大きな炉に丸太入れて火たいて、それに腰かけてあたるんです。カンテラとぼしてね。塩なんかも真黒でね、それでもこんどの戦争中のよりはいかったね、砂まじってなかったから、あれなら味噌も何もたけなかった。

 イタヤの汁とってなめましたよ、ガンガンを木の傷にのところにさげてね。

 たのしみといふと冬になると旅芸人といっても、祭文かたりの少してのいゝようなの来て、一冬いたこともありました。色々な芸やってね、そんなものでしたよ。それから2区と3区の戸主さんたちで芸のすきな連中が合併して10人位が壮士芝居をして網走の方まで行って来たのありましたよ。まだ日露戦争の前でした。上手にやるとハナを投げたりしましてね。


参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月

2017/04/27

屯田の頃4

藤沢イヨさん(明治13年生、屯田兵妻女)の話

 わしら同じ村から3軒来たんじゃ、わしの妹がこれ西木戸で、わしは藤沢に嫁になったんじゃ。端野の吉田さんも同じ村じゃ。藤沢と内田の2軒は三中隊(相内)の2区に入ったの。

 わしゃ内地でキンバタとかシャクリ織という、足でふむ織ね、姉が嫁に行った先の加賀の小松というところに行ってならっていたの。内地は織おらんと嫁に行かれんと、いうもんだから、裁縫はどうでもいゝが、織ならわんにゃ駄目だというもんじゃから、いっしょうけんめブーンブーン糸ひいて、河内木綿つくって隣にまけちゃならん、あっちに負けちゃならんというて……そしたらね2年つづけて大水出して2年目はドロドロの水がいつまでもひかんので、2階にあがって火たかれんから、加賀ではコーセンを食べるので、コーセンばかりたべていました。加賀ではね、水車でコーセンひいてもらって、コーセンばかり腹一杯たべてあと一杯だけご飯を食べたもんよ。昔は殿様へ年貢にみんな米もって行かれるんよ。それ一合たらいでも提灯とぼいて、たのんますたのんますといって、金かりに貧乏なおとさん言って歩いたものよ。そんなとこじゃからコーセン食べるのよ。麦をいってそれ水車がひいてもらうか、家で石臼ひくかして、ソバなんかもまぜてね。昔よくよそへ奉公に出るのに、どこそこはだめじゃ、小皿に一杯より飯あたらんからといったもんじゃ。ところによっては小皿に一杯のご飯もあたらなんだ。昔はね。それが2年つゞけて水が出て、その僅かな水田も皆石川原になって何もとれないの。そしたら私の兄が21になったら兵隊に行かんならんでしょう。兵隊にとられたらこまるから、屯田願うたら1万5千坪あたるし、小屋も米も着物も皆あたるから、行かないかというのだ、それなら藤沢の家でも端野へ行った吉田も、そんならといって、そしたら合格して来たの。昔は殿様に年貢はかるのに、皆米とられるのでね。うちらの村で強盗の提灯持ちをして歩いたというのがいてね、その人捕って網走の監獄所に来ていたが、それが天皇陛下様の何かお祝で出されて、そこから帰って来て、わしらこっちへ来るお祝いに来て酒のんで、天気のよい日は網走から樺太の灯が見えるから、女ゴ沢山連れて行くと、樺太から女ゴ買に来るといっておどかすやらね、それから熊が沢山いて窓から入るというがで、わしのお父さんは針金を沢山買って、それで網こしらえて張るといって来たんだよ。だけど来てみたら、そんなことなかった。

 国から歩いて金沢まで出て、檀家寺へお別れだといって一晩泊めてもらって……そこから汽車もないので能登まで歩いて行ったでしょう。そしたら七尾へ行って8日船を待って、船で8日。その船も荷物つむ船で、上の子供が小便するでしょう。するとダダダともってくるでしょう、水をかやしたんだというけどくさいもの。お茶はくさいし、ご飯は塩からくて一ぜんたべたらもう、酔っぱらってしまって網走へ着くまで一遍もご飯たべなんだ。小樽へ着いたら菖蒲湯をつかわすといっていたので有難いなアと思うとったり、どっこい水積むところおとして、海の水発動機でシアーと入れて、わかして女達入ったら、男共はのぞきに来るのぞきに来る……。そして女入った湯ダーとおとして新しい水くんで、こんだ男の人が入る。それだから私ら飲み水だいうてもろうてのんだの、水だと思ったら風呂の水じゃったのかといったが、そのあと洗ろて、またのみ水入れたもんじゃ。

 網走へあがったら、運のいゝ人はよい宿屋でとても御馳走あったというのに、わしらはとっても貧乏たらしい宿屋で、ゴンボのおつけとヒジキのおつけだから泊ったものが金出して魚買って来て食べたよ。同じゼニもろとって、そんなにちがったよ。

 網走から小蒸気にのってきたが、わしの下駄片いっ方大蒸気におといて来たので、それが網走で買ふと思ったが、売ってないの。弟達は小さから馬車で来たで、私はちょこし大きかったのでハダシで歩いて来たの。

 こゝへ入ったら芹にも毒ある芹あるぞ、こんなものも毒じゃぞと説明されたの、こゝへ来たときまだできん家もあったの。私のおとっつあんの大工ぢゃったから、残り板で箱つくってもろて、家に来るときそれもろて来たの。

 その頃の北見市は店が1軒と、木挽小屋と大工小屋とだけでした。屯田の家つくるのに板ひいたり、家つくるのにね。それでね、5年も6年も、こんなとこなら来ないばよかったと思ふた。今なら来ていかったと思ふがね。よく夫婦喧嘩してたもんさね。おれは来たくないのに、お前が来る来るいふたからちうてね。わしも家はおれんで毎日畑おこし、兄は大隊本部に銃直に行くしさ、稼ぐものがないから、わしとおかさんばかりで働いた。北見の町中なんかアイヌ株(やち坊主)ばかりで、ギワズ(鮭)がギアギアギアギアないていたところじゃ。

 わしら何も買ふことできないしさ、西木戸へ来た妹と土地半反歩もろてさ、そんであてから(明治31年)来るものに売ってやらんならんちゅうて、野菜つくってそれで帯買ったり着物かったりしたん。食物といったらキビと麦だけじゃろ、お客来たときだけ米のマンマたくだけ、米のマンマはお客と仏さんで、子供にもあたらんのじゃ。今の豚よりもおぞいもの食べたさ。今の者は天皇陛下様よりんまいもの食とるわ。でも麦めし粟めし食ふとったとき病気せなんだぞ。金時豆1俵と長鶉1俵うって、内地米の米1俵と換えたことあった。その米も金とりに働きに行くものだけ、家のものは麦とキビだけよ。砂糖なんて正月に黒砂糖あれば上々。



参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月

2017/04/26

屯田の頃3

西木戸キノさん(明治15年生、屯田兵妻女)の話

 私の国は加賀じゃ、15で来たんでなもかも忘れてしもた。30年の6月10日に入ったが、おとっつあんは職人で何でもする人だった。せんものは鍛冶屋だけじゃと。そのおとっつあん来たあけの年死んでしもた。それでおっかさん「こんな早よう死んでしもうなら、北海道へこにゃよかった」といった。病気でね。北海道へ行けば1万5千坪の土地もらへるいうのできたんじゃが、実家は内田といってね。兄が屯田兵できたんじゃ、5人まで扶持あたったからうちでは私までで、弟もいたが弟にはあたらなんだ。それで私は来た次の年に西木戸に嫁に来たんじゃ、こゝは4人家内で来たんだから。5人までもらえるんでね。

 日露戦争にはうちのとうさんも旅順に行って、あそこで怪傷してね。扶持はなくなる働手はとられる。おまけに怪傷するでしょう。その頃麦つくっていたが、兵隊に行っていて小遣ないから金送れというので、麦1俵2円で売ってね……。そんな話すると今の者は笑うけれどもね。苦労したんだよ。とうさん戦争に行った年大麦8反歩つくっていたが、それ皆手で叩いておとして、それ馬車で宅地へ運んだもんじゃ。酒かなんかになるというのでつくったんじゃ。

 着物縫いたくとも糸買えないでしょう。舅爺さんにトーキビ臼でついてもらって、それもって店屋へ行って、それでカナ(木綿糸)ととりかえたの。

 この辺は男が3人で手合はしても、まだ手の合はんそんなデカイ桂の木があったよ。今はみな田園になっとるが。



参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月

2017/04/25

屯田の頃2

田中リヨさん(明治16年生、屯田兵妻女)の話

 私のところ31年の新兵でね、山形の舘岡というところから最上川を舟でくだって、酒田まで3日2晩かゝってね、酒田でも随分とまって、本間さんのお祭あったでにぎやかでにぎやかで、皆遊んでいたり「火事だ火事だ」って火事ぶれして、皆集まったら、汽船が入ったからのらんければならんというので、その時は物凄かった。それで船にのったでしょう、そしたら客船でなくて、荷物船でしょう。その段々の棚ついたところさつっこまれて、そしたらペンキ臭いというんだか何だか、そしたら上で小便したの漏ってくるしさ、そして4日4晩かかって網走のかげ(ポンモイ)さあがって、山越えて町さ出たの。そして荷物小舎にとめてもらってね。次の日暗いうちたって、網走湖舟できて1号の駅逓にあがったら、ポツポツ雨がふってね。そこワラジはいて、ベチャベチャって歩いて来たの。だから忘れられない。私が16になって4つの子供おぶってね、母親が子供できるようになって歩かれないで馬車でつれてきてもらったの。私たちね内地でるとき、田中の妹がうちの兄さんに嫁に来て、私が田中に来てやりとりしたの、式は内地でしたが、本当にやりとりしたのは来た次の年の春だったの。

 私の兄弟沢山いて8人家族だったが、こまかったから、あたり前に来もらうの戸主と嫁さんと、父親と母親だけ、だから実家ではこまったよ。それに9月に来たんだから、何もつくれないでしょう。家もひどい家さ、台しなければ入れない土台の高い家さ、入ったら中に木生えているんだもの。むさいなアと思ったね。

 それに私嫁になったって身体小さいし年はゆかんし、力はないし、どんだけ恥しい思ひしたか、泣いて泣いて子供できるまで泣いたね。身体小さいでしょう力弱いでしょう。それでも嫁でしょう。あれで嫁さんかといわれるの恥しくて、かせいで休むとき水のみに行くふりをして、川の中へ顔つっこんで何ぼ泣いたか、そして顔洗って来てやったもんだ。

 それでつらいから時々実家に行くの。うちに行くといいわ。それで帰るの一分でものばすべと思って……帰るとき東相内の坂のところ、アンアンて大声あげて泣いて帰って来たんだ。そしたら叢のかげからヒョコッと女衆が顔出したので、びっくりしてやめてしまったの。今だから笑うけんどアハハハ……。

 本当に子供できるまでいつ死んでもいいと思った。風呂が四辻にあったがよるねる前に風呂へ行って帰り、神社の前通るのでお賽銭あげて手合はしたもんだ。子供できたら心おちついて、こったらことしていれないと思ったね。私の姑さんはあとのない人(生地悪でない人)だども、何でもバリバリいう人だべさ、つらかったよ。家へ帰れば実家の母親は「それほどつらかったらお前何とかせといひたいが、うちえだけは来てくれんなよ、うちには子供多いし、こうして嫁さんに面倒みてもらわなければならないしするから……」というから泣くよりないべさ、やったり、とったりだも、私帰ったら嫁さんいれなくなるべしね。私も嫁さんも小さいときから奉公した人だから、お互苦労したんだ。

 ハッカ作ったときもつらかったね。雨ふったら縄ない。天気いゝと夜半過ぎまでハッカかけ、帰りいつも夜半過ぎだから、心がねむって歩いているんだ。だから足がテックラテックラってして目あけて、帰って風呂入ってねて、朝また暗いうちに出かけるんだ。今の人は五時になってお天道さまがあがっても、おきないけれども。昔朝しないで朝飯食べたことなかったよ。

 私の実家は内地で大工だったの。百姓なんて知らなかったが、北海道へ行ったら絶対大工しないといっていたが、兵屋がひどいのでたのまれて随分家なおしたね。舅爺さんは木を倒すとそこら一杯になるので、木にのぼって枝おろすの。それで何度も死ぬ目した。堤防にあった大きな桂の枝おろしたときも、網で木からおりて来たら、網が木の枝にひっかかって、中ぶらりんになってしまって、手はなせば下はおとした枝が槍みたいになっているべさ、それで皆がハシゴつないでもとどかないし、大騒ぎになり婆さん神様さおあかしあげてたのむべさ、どうにも仕様なくて思いきってとびおりて、それでもハシゴと木の間におちて助かったの。27号でも枝おろしていておちて馬車に乗せられて来て……器用な仕事の上手な人だった。苦労した人なもんだから、こまってる人をどれだけ泊めたかしらない人だった。昔汽車も馬もないとき旭川へ行くのに、歩くよりないでしょう。その人達が毎晩にうちへ泊ったね。だからおかずつくるとき余分につくっておかなければなんなかった。自分のところで子供も多いのに、ちゃんとお客あつかいして警察から乞食までとめたよ。道路人夫や鉄道のタコもかくして、人に見られないようにして、夜車で送ってやったりしてね。

 私は悲しいとき念仏をうたにして、草取りでも何でもうたいましたよ。歌なんてうたえなかったね。かせぎがつらくてね。ナマンダブツ、ナマンダブツ、ナマンダブツ。

 日露戦争の時は子供1人、腹ん中へ1人おいて行ったの。金の心配だけは舅さんしてくれたからよかったが。……何だって仕事に苦労したんだ。もうその頃は扶持米もないでしょう。それに米はとれないしさ、蕗とかウルイ(タチギボウシ)とかとって来て、飯に入れました。味噌がなくてゴショイモ煮てつぶして塩入れて、それで味噌のかわり。その塩だって網走まで行かないと買はれないし、買物には馬で夜通しかけて出かけたものです。うんまいもの食はなかったから、病気も一つもなかったね。



参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月

2017/04/24

屯田の頃1

橋爪仁太松さん(明治11年生、屯田兵)の話
橋爪キンさん(明治15年生、妻女)の話

 私達石川県です。石川県が70何戸か来たはずです。こゝだけ(3中隊3区)でも6戸か7戸ありました。井戸組にも2戸でしたから心強かったですよ。他よりは……石川県の者は皆七尾から船にのりました。私の家は小作農家でしたので、それが5町歩の土地がもらえるというもんですから、30年の6月10日に入りました。

 この家のまわりはクルミの木が沢山ありました。こゝは宅地だけで、二給地は留辺蘂よりです。ひどい笹藪でした。木はあまりありませんでしたが、私が入って4年目に隣の和気さんという家でごみ焼きした火がもえて、和気さんの家が火事になり、私のとこもそのもらい火でやけてしまいまして、また建て直してもらいました。31年の水害のときこゝは水がつかなくてよかったといっていたら火が来ましてね。

 日露戦争では満州に行き、奉天の戦争に参加しましたが、この部落では山下さんという人が戦死しました。私は死ぬとは思えませんでしたが、いつ帰るかとそれが心配でした。奉天では夜襲をかけましたが、夜なもんじゃから、28聯隊と私は26聯隊の1大隊でしたが、それがあんた、味方同志暗いもんじゃからぶつかりましてね。

 今でも屯田川屯田川と言うとりますが、この裏を通っています。ポン湯の上から引いたんです。あれほるときイナキビの弁当かついであんた、冬も夏もね。



参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月

2017/04/19

平和祈念碑(忠魂碑)


 相内神社に隣接する相内公園には、平和祈念碑があります。これは当初、忠魂碑として建立されたもので屯田区有財産、及び相内村有志の浄財によって、大正13年10月16日竣功、除幕式。合わせて招魂祭。以来、毎年9月15日に招魂祭を行っていました。
 場所は御社殿に向かって左手、南面して国道の方を向き、神社の参道をはさんで開拓記念碑とだいたい同一線上にあります。
 上部の「碑」の部分は十勝産花崗岩の自然石、下部の台石は同じく花崗岩の切石。最下部の礎石は留辺蘂産の軟石。側面(神社側)には建立に携わった人々の名前が刻まれています。

 碑石の高さは約2.3メートル、基礎の高さは約4.8メートル。基礎の外郭は一辺約7.7メートルの方形です。

 もとの題字「忠魂碑」は竣功当時の第七師団長・国司伍七中将が揮毫した書で、それが終戦後に改められました。写真にもある「平和祈念碑」の題字は、元屯田兵の河原鶴造・相内村第3代村長によるものです。

 同様に、かつては日露戦役の戦死者9名(元屯田兵7名、その他2名)と他1名の名前や勲等を、碑の左側に刻んでいたといいますが現在は何もありません。平和祈念碑と題字が改められた時期に、削られてしまったのかもしれません。

『相内村誌』(斎藤隆、平成21年)には上記計10名の名前などが載っていますので、引用してここに顕彰したいと思います。名前の右は亡くなった年月日、場所です。

陸軍歩兵一等卒・勲八等/服部清吉/明治37年12月5日/旅順
陸軍歩兵上等兵・勲八等/柳田末吉/明治38年3月8日/奉天付近
陸軍歩兵上等兵・勲八等功七級/渡邊市太郎/明治38年3月9日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/山下増芳/明治38年3月9日/奉天付近
陸軍歩兵上等兵・勲八等/石井丑吉/明治38年3月10日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/真野元次郎/明治38年3月10日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/那須為三郎/明治38年3月10日/奉天付近
陸軍歩兵一等卒・勲八等/小田島藤太郎/明治38年6月16日/遼陽窩棚
陸軍歩兵一等卒・勲八等/林幸作/明治38年11月5日/戦傷後東京にて病死
海軍一等機関兵/中川乙松/明治45年7月15日

 なお、河原さんは「(忠魂碑への題字の)復原の日を待つのみ」と言い、「大東亜戦争の殉国者百余名の英霊を追祀する議あるも、いまだその氏名を刻記するに至らず。その実現の期の早からん事を望むのみ」とも言っています。

2017/04/18

河原鶴造立像


 相内神社に隣接する相内公園に、旧相内村第三代村長・河原鶴造さんの立像があります。昭和31年9月建立。

 神社の参道の方を向いて立っており、ご本人を知る人に聞くと、この像そっくりの方だったそうです。

 相内村の発展に多大な功績を残した河原さんは、明治10年1月10日、鳥取県東伯郡長瀬村大字水下村の生まれ。同31年9月屯田兵として移住、36年屯田兵の現役解除時には歩兵軍曹。日露戦争時は北韓軍に属して功有り、勲七等青色桐葉章を受章。その後、北海道庁林務課勤務、帝室林野管理局技手をへて大正4年に相内へ帰村。呉服太物商を営み、昭和8年9月14日より同20年9月9月13日まで村長を勤められました。

 侠気に富み、動作は俊敏、喧嘩や口論があると聞くと、すぐ和服の裾を割って尻はしょり、裸足で仲裁に駆け出したそうです。日記の扉には「無クテハナラヌ人トナルカ、有ツテハナラヌ人トナルカ」「牛羊トナツテ人の血肉ニ化セズンバ豺狼トナツテ人ノ血肉ヲ啖ヒ尽セ」とあったそうで、激しい気性の方だったようです。

 昭和16年4月22日の相内村大火の際には出張中。当時の国鉄池田線上での帰路、旭川新聞で自宅の焼失を知り、上常呂駅に出迎えに来ていた長女から、寝たきりの夫人が小学校長宅に避難したと聞きました。そこまで知るとあとは自分の身の上はかまわず、相内に戻ってすぐに焼跡を40分ほど視察、それから村役場へと向かう途中に自宅の焼跡の横を通っても足を止めず、顔すら向けなかったそうです。

 私にとっても河原さんは非常に大事な方で、河原さんが『相内村史』を編集、また私家版として『相内村に於ける神明祭祀の起源と沿革 神社神域の地区と周辺造営物の由緒』という記録を残してくださっていたので、神社の昔のことを知ることができ、大いに助かっています。


 この「勤倹力行」の墨蹟は河原さんのもので、当神社御社殿内にあります。参拝される方にとっては背後になりますので、なかなか気づきにくいかもしれませんが、ご参拝の際にはぜひ、ごらんください。
 丙寅夏日とあるのは、大正15年。約90年前です。「狂水」は河原さんの雅号。漢詩や川柳、短歌もたしなまれ、各種の記録の中で作品をときおり目にすることがあります。


参考文献
『覆刻版 相内村誌』斎藤隆、平成21年
『北見市開基100年記念 ふるさとの歴史を訪ねて』清水昭典、平成8年、北見市

2017/04/17

境内社・相馬神社


 相馬神社は相内において最も歴史のある神社といえます。
 屯田兵が入植した直後の明治31年9月、当時の二区(現在の北見市美園の大部分)に遥拝所が設置され、毎年春秋二度、お祭りをとりおこなっていました。
 明治36年に屯田兵は現役解除、後備役となると、遥拝所は二区所属となり、西側山麓の空気の澄んだところに御社殿を御造営。これは現在の西18号線、灌漑溝の北側付近にあたります。

 例祭は春6月15日、秋は10月15、16日。盛大にとりおこなってきましたが、人口の減少にともない、護持運営に今後不安が残ることを見越して、相内神社境内へ御遷座されることになりました。

 昭和32年11月2日、美園部落こぞって馬車を出し、御社殿を丁重に運び申し上げ、現在地に御遷座されました。

 現在は7月17日を例祭日とし、祭典委員会を設けて、相内・豊田・美園の三地区の輪番で祭典をとりおこなっています。

2017/04/14

神楽殿(旧豊田神社)


 相内神社の神楽殿は、かつての豊田神社の御社殿を流用したものです。
 豊田神社は明治36年、屯田兵が現役解除になったのにともない、地域の小祠として創祀。春秋の二度、例祭をおこない、特に秋は土俵をつくって奉納相撲をしたり、舞台をつくって田舎芝居をしたり、仮装行列をしたりと、住民にとって、日頃の労働から解放される年に一度の楽しみとなっていました。

 鎮座地は現在の西24号線の灌漑溝北側。今も残っているかつての御社殿は大正年間の建立。向拝上部の彫刻がすばらしいです。

 現在地への御遷座は昭和42年。豊田部落総出でご奉仕申し上げました。

2017/04/13

境内社・三吉神社

 相内神社の境内社・三吉神社はもと北見地方秋田県人会によって、昭和10年10月15日、北見市美芳町に御造営されました。昭和34年、北見市の市街化計画の区画整理の対象となってしまったのにともない、相内神社へ御遷座されたものです。

 なぜ相内神社だったかというと、当神社初代・今村政男が昭和10年の御造営にたずさわった御縁によります。御造営当時は当時の秋田県人会代表で、名物豆腐屋といわれた瀬川勇助さんらが世話役となり、今村宮司と末永く大切に祀ることを約束したそうです。

 当神社へ初めて三吉神社が御遷座されたときは、現在の社務所裏あたりにあったのですが、昭和34年に社務所が新築されると、その裏になってしまったので、秋田県人会ではさらに別な場所へお遷ししようと呼びかけ、昭和50年11月22日、現在地へ御遷座となりました。

 北見地方秋田県人会は大正4年2月発足。会員同士の結束力がつよく、季節ごとに集まってにぎやかに毎年6月に例祭をとりおこなってきましたが、会員数の減少、高齢化にともなって平成28年6月をもって解散しました。

 かといって今村初代宮司の約束もありますし、お祭りを絶やすわけにはいきません。今後も年に一度の例祭をとりおこなって参ります。

2017/04/12

屯田兵の練兵場


 相内神社の境内地は昔、屯田兵の練兵場でした。「屯田兵村」は北海道遺産になっていまして、神社北側の原っぱに写真のような案内板が立っています(地図中の「現在地」の場所です)。
 案内板の「上野付牛兵村」は屯田兵移住直後の名称です。
 地図を見ると、往時のようすが一目瞭然、よく分かります。さすがによく調べてありますね。



 右は上の看板にある地図の拡大。神社は練兵場のどまんなかになっています。
 神社のすぐ北側の「相内公園」と書かれている場所は、大部分が芝生、一部分が土の地面でゲートボール場としてよく使用されています。昔はこの公園で草競馬をしたり、町内会対抗の運動会をしたりしたそうで、楽しみにしていた人がたくさんいたと聞いたことがあります。




 左の写真は相内公園の南東隅から北西方面を撮ったもの。かつては前方の山の方を目印に射撃訓練を行っていたそうです。
 上の地図によると、このさらに北側に射撃場があったようです。現在は個人の農地になっていますので、入ることはできません。地図上の「的場」はこの写真の山の方向で、そう当時と見え方は違わないんじゃないかなと思います。
 公園の四周や西十九号線に沿って桜が植えられており、五月上旬の開花時の景色は、みごとなものです。

2017/04/11

開拓記念(拓荒殖産)碑


 相内神社の御社殿の向かって右手、公園内に開拓記念碑(拓荒殖産碑)があります。大正15年9月25日起工、11月22日竣功、12月1日除幕式をとりおこないました。総工費は五千二百円。
 碑石は陸前国稲井の産石で高さ約4.8メートル、幅は約2メートル、厚さ約30センチ、重量7800キロ。その下部は十勝産の花崗岩で、高さは約2.3メートル、幅は約7.9メートル。地上からの高さ約7メートル。


 創建時はさらにその下に、玉石56.2平方メートル、コンクリート231平方メートルを敷き詰めていました。
 碑文の題と撰は当時の北海道帝国大学総長・佐藤昌介の手になり、三浦翠山が揮毫。碑面の背後には相内村の開基者である屯田兵の戸主199名、他1名の氏名があり、これは小川多聞の書。
 もともと相内神社の境内地はすべて、屯田兵の練兵場でした。夏の暑さや冬の寒さに耐えて訓練を行ってきた地、汗の染み込んだこの場所こそ、記念碑を建立するのにふさわしいと判断されたようです。


(参考)碑文の大意

 遠くふるさとを離れてへんぴな地に移り住み、不毛な土地を切り開いてさまざまな産業を起こす。その志は壮大で、その業績は偉大だというべきでしょう。
 北見国常呂郡相内村はもともと、原生林の広がる不毛の地でした。明治30年6月、根室国和田村の屯田歩兵第四大隊の本部を北見に移し、第三中隊をこの地に置きました。府県に兵戸100を募集して屯田兵とし、翌年9月、また100戸を募集して合流させました。これを相内村の初めとします。
 屯田兵は募集に応じるとみな、北の大地を開拓せよとの大御心をいただき、決然として故郷を離れました。それ以来、強い風や激しい雨をものともせずに、朝晩武を練り、大木を伐採、開墾にたいそう励み、そう時間もたたないのに立派な集落を築きあげました。
 34年には灌漑溝の幹線、総延長4里(約15.7キロ)を掘り進め、翌年竣工しました。それで水田の収穫があがり、たちまち豊かな農村となりました。
 36年3月には、屯田兵の兵期が満了して解隊。後備役に編入されましたが、37、38年の日露戦争には召集に応じて出征し、国家のために力を尽くしました。
 43年2月には、屯田部落の所有地から138町歩(約1.4平方キロ)を割いて、学校基本財産として寄付。
 大正10年4月、相内は野付牛町(現・北見市)より分かれて独立の村となり、二級町村制を施行。15年6月には、工費65,000円を投じて、尋常高等小学校を改築し、7月、相内屯田土功組合を設け、公共事業として日ごとに進展、ためになっています。
 これより先の明治44年10月、池田・網走間に鉄道が初めて通じ、翌大正元年11月、湧別線がまた完成、交通の便がたいへんよくなりました。それで移り住む者が年々増加し、今は全村数えると実に700戸、4200人、田圃2200町歩(約217.8ヘクタール)。生産年額65万円。まことにさかんというべきでしょう。
 今ここに丙寅(碑落成の大正15年)、開村30年に際し、村民がたがいに相談し、碑を建てて記念としようとして私のもとへ来て依頼しました。壮大なる屯田兵の意気や、業績はなはだしく、諸産業の発展に大きな貢献をしたと聞き、喜んで事績のあらましをすぐに良石へと書き記し、また、この事績は永遠に語りつがれるでしょうと申します。

(参考)碑文の書き下し文

 遠く桑梓を辞して、遐荒(かくわう)に移住し、不毛を闢(ひら)きて国産を殖う。その志や壮にして、その業や偉なりと謂(い)ふべし。
 北見国常呂郡相内村は元、榛蕪不毛の地に属す。明治三十年六月、根室国和田村の屯田歩兵第四大隊本部を北見に移し、第三中隊を此の地に置く。府県に兵戸一百を募り、以って屯せしめ、翌年九月、また一百戸を募りて移す。これをして本村殖民の嚆矢と為す。
 初め屯田兵その募に応ずるや、いづれも皆、北彊開拓の聖旨を体し奉り、決然墳墓の地を辞して、而来、櫛風沐雨、日夕武を練り、榛を伐り、墾闢に誅奔し、はなはだ努めて、いまだ幾(いくばく)ならず菑畬、功成る。
 三十四年、灌漑溝の幹線、延長四里を掘鑿、翌年竣工す。是において、水田また随ひて開き、たちまち一農邑と成れり。
 三十六年三月、兵期満ちて解隊編入、後備役に編入さる。三十七、八年の役に充員の召集に応じて出征、国家のために力を竭(つく)す。
 四十三年二月、屯田部落の所有地、一百三十八町歩を割きて、学校基本財産に供す。
 大正十年四月、官、野付牛町を割きて独立の村邑と為し、二級町村制を布(し)く。十五年六月、工費六万五千円を投じて尋常高等小学校を改築し、七月、相内屯田土功組合を設け、官允事業を得て日に進みて為となる。
 是れより先、明治四十四年十月、池田・網走間に鉄道始めて通じ、翌大正元年十一月、湧別線また成り、交通の便、頓(とみ)に開く。移民年を遂ふて増加し、今や闔村の実算、七百戸、四千二百人、田圃二千二百町歩。生産年額六十五万円。まことに盛んと謂(い)ふべし。
 今ここに丙寅、開村三十年に際し、村民胥(たがひ)に謀り、碑を樹(た)てて以ってこれを表せんと欲し、予が文を来たりて請ふ。予すでに壮なる屯田兵移住の意気、かつ業績甚(はなはだ)しく、増殖国産尠(すくな)からざるを挙ぐると聞き、すなはち喜びて事績の梗概を貞石に勒し、以って之を伝ふるに不朽なりと云ふ。

(参考)碑文(原文)

遠辞桑梓而移住遐荒闢不毛而殖国産可謂其志也壮而其業也偉矣北見国
常呂郡相内村元属榛蕪不毛之地明治三十年六月移根室国和田村屯田歩
兵第四大隊本部於北見也兮置第三中隊於此地募兵戸一百於府県以屯翌
年九月又募一百戸而移為是為本村殖民之嚆矢矣初屯田兵之応其募也孰
皆奉體北彊開拓之 聖旨決然辞墳墓之地而来櫛風沐雨日夕練武伐榛誅
奔墾闢太努未幾菑畬功成三十四年掘鑿灌漑溝幹線延長四里翌年竣工於
是水田亦随而開忽成一農邑矣三十六年三月兵期満解隊編入後備役三十
七八年役応充員召集出征為国家竭力四十三年二月割屯田部落所有地一
百三十八町歩供学校基本財産大正十年四月官割野付牛町為独立村邑布
二級町村制十五年六月投工費六万五千円改築尋常高等小学校七月設相
内屯田土光組合得官允事業日進為先是明治四十四年十月池田網走間鉄
道始通翌大正元年十一月湧別線亦成交通之便頓開移民遂年増加今也
村実算七百戸四千二百人田圃二千二百町歩生産年額六十五万円寔可謂
盛矣今茲丙寅際于開村三十年村民胥謀欲樹碑以表之来請予文予既壮屯
田兵移住之意気且聞業績甚挙増殖国産不尠乃喜勒事績之梗概於貞石以
伝之不朽云

大正十五年丙寅九月中浣
 北海道帝国大学総長正三位勲一等農学博士佐藤昌介 題並撰


(参考)相内村開基三十周年記念式典中、建碑除幕式における工事報告

 相内村開基三十年記念事業ノ随一たる開村記念碑功成り、茲に序幕の式典を挙るに当り不肖鶴蔵之が工程を報告するの光栄を担う、国に歴史なくんば国民愛国の誠を舒ぶるに由なく、里に開基の跡瞭かならざれば郷党亦愛村の念を涵養ふを得ず、我村開基僅かに三十年を出でずして先住の事績漸く其明を欠かんとするを惟ふ時又百年の後、之が晦亡を懸念せざらん、之れ記念事業の企画を見たる所以なり。而して荏苒沃せずして年所を経たり。会々開基三十年の迫るに及んで建碑の議漸く熟し、昨大正十四年十月始めて委員会を設け、之が実現の方法を練り、本年五月進んで実行の期に入る。爾来、委員会の組織、人員の異動、事業経費の増加設計の改変を見る事数次に及ぶ。之れ事業の最善を期する所以に他ならず、村長を押して委員長となし、副委員長以下二十四名の委員之に参与し、協力一致今日に至る迄、実に一年三ヶ月を経たり。設計者は札幌なる鈴木三次郎氏にして、工事は十勝の人、加藤鶴松氏の請負施工するところ、而て委員田中安太郎氏建碑係長として当面の責に任じ、委員脇文吉、河原田万蔵の二氏、工事監督として努力最も力めたり。着手九月二十五日、竣功十一月二十二日、時恰も晩秋、時雨風雪交々到り、天候頗る不良、大ひに工事の進捗を阻害したるに不拘、万難を排して竣功を見たるは監督の精励は元より、請負者亦大ひに力めたりと言ふ可し。今工事の概要を陳ぶれば次の如し。 
 碑石は海内に名声を馳する陸前国稲井の産石にして高さ一丈五尺八寸、幅六尺八寸、厚一尺、重量七噸八分、運賃を合して価格八百三十九円、基礎は高さ七尺八寸、幅員二丈六尺、方形にして、道内の珍たる十勝国産花崗石を用ゆること一千六十八才、加うるに玉石十七坪、混凝土七十坪を以てし、費用三千三百二十五円を要せり。
 而して更らに金二百二十円を投じて碑前の溝に架するに同じく花崗石の橋梁を以てし、一段の景観を添へたり。以上合計四千三百八十四円にして間接に要したる雑費九百円を累算するとき総工費実に五千二百円を出づ。
 碑文は北海道帝国大学総長・佐藤昌介閣下の題並に撰に成り、其撰文は三浦翠山氏の揮毫する所。而して碑陰に刻するにの開基者たる屯田戸主一百九十九外一名の氏名を以てす。小川多聞氏の書するところなり。
 而して地域を相して此処に建設する亦故あり。此地元屯田練兵場の一角にして、実に村基発祥の霊地、曽つて彼等が烈々たる炎熱の下、皚々たる凍雪の上、千辛屈せず万苦撓まず武を練り技を鍛へたる処、由緒寔に深し、想つて茲に到れば脈々たる血液勃然として高潮し、切々たる感慨、蔚然として湧起し来るを覚ゆ。
 今幕を除ひて竣成の碑前に立ち、仰ひで其出来栄を見るに、地を抜くこと二丈五尺三寸、巍々乎たる雄姿、平原を圧して屹立し威風堂々、荘厳の気村内に溢るるを見る。而して碑や姿態端麗にして清高、暗黙の裡、自ら先住者の功績を語るが如く、基石は稜骨岩々、曽つて彼等が嘗め来れる堅忍不抜の精神を表はすに似たり。堅牢真に無比、雨露も侵す能はざるべく風雪も亦損する能はざる可し。以て千載に伝へて後昆子弟を感奮興起し開祖の恩頼を景仰せしむるに足らむ。
 聊か所感を加へて報告と為す。

 大正十五年十二月一日

 相内村開基三十年記念事業副委員長  河原 鶴蔵

※この工事報告文は『相内村史』(昭和25年3月20日)の記載によります。ただしカタカナをひらがなに、旧漢字を現行のものに改めました。かなづかいの表記の揺れは、そのままとしました。